動物には「種族の保存」という本能がある、と言われることがある。
自分という一個体を犠牲にしてでも、種族全体の繁栄を優先させるというものである。
たとえばネズミは個体が増えすぎると、集団で海に飛び込んで自殺するとか、あるいはカマキリのオスが、交尾のあとでメスに食べられてしまうとか・・・。
だが、この「種族の保存」なるものが、本当に動物の本能として備わっているかどうかについては、かなり怪しい。
日高敏隆『動人物』
によれば、ある種のトンボのオスは、メスを見つけると、交尾する前にまずメスの交尾器を調べ、そこに自分より前に交尾したオスの精子が残ってないかをチェックする。もし精子がのこっていれば、それを綺麗に取り除いて掃除し、前のオスの精子を排除し、それから自分の精子を放出するのであるという。
またライオンやサルの中には、妻に前夫がある場合、その前夫の子を皆殺しにしてしまうものもいるらしい。
これらの事例は、明らかに「種族の保存」の原則に反する。種族を保存するのなら、自分の子であれ他人の子であれ、生存させるのが妥当だからである。
日高は、こうした事例をもとに、
「種族ではなく、自分の遺伝子の保存・繁栄こそが重要なのである」
と結論づけている。
つまり、自分の遺伝子をもつ子孫をどれだけ後代に残せるかが重要なのである。
では、なぜ動物が「種族の保存」という本能を持つという解釈がしばしばなされたのか?
仮説に過ぎないが、私はそうした議論がしばしばなされるようになった背景には、民族主義とのアナロジーがあるように思えてならない。
動物には「種族の保存」の本能があり、自己犠牲の精神がある。そのことと、民族の存続のための、自己犠牲の精神とが、アナロジーとして対照されきたのではないか、と。
もちろん、これには、「種族の保存」に関する言説の歴史についての厳密な実証が必要であろう。
しかしおそらくは、
「動物には「種族の保存」の本能があり、それが人間においては民族の自己保存の本能となって顕現している」
とか、あるいは
「動物ですら種族の保存のためには自己を犠牲にする。ましては人間は・・・」
というような言説が、多くなされてきたのではないか?その結果として、人々はこうした言説を信じるに至ったのではないか。
しかし、仮にそうしたアナロジーの論理が存在していたとしても、それはどちらかが原因でどちらかが結果の関係にあるということを意味するわけではないだろう。民族主義が動物の「種族の保存」本能説を生み出したわけでも、またその逆でもない。
それは利用され動員されただけである。
というのも、仮に生物学の進歩によって、動物が決して「種族の保存」という本能を持たないということが明らかにされたからといって、民族主義者は痛くも痒くもないに違いないからである。
もし動物に「種族の保存」の本能が無いということが、民族主義全盛の時代に明らかになっていたとしても、民族主義者は
「だからこそ人間は動物とは違うのだ。人間には自己犠牲によって種族の保存を希求する崇高なる精神が宿っているのだ」
と言えば済むだけのことである。
「人間と動物は何が同じで、何が違うのか?」
この問いはしばしばなされる問いである。
しかし、この問いに関する答えは常に論者に(そして人間に)都合の良いように構成されてきたのではないだろうか?
以上、オチらしいオチも無いのだが、今後掘り下げて考えてみたい問題だったので、メモがわりに・・・。